ああ一ツ橋
「一ツ橋」と聞いて頭に浮かぶのは、やはり一橋大学だろうか。その名は大正9年(1920)、前身である旧制東京商科大学が現在の千代田区一ツ橋に設立されたことに由来している。
近くを流れる日本橋川には、「一ツ橋」という橋が架かっている。大正14年(1925)に竣工したもので、一見石橋のように見えるがコンクリート製とのこと。関東大震災(1923)の復興のさなかの工事とあって、予算も物資も不足していたためか、立派な橋とは言い難いものの、橋脚部分の古めかしい作りは味わいがある。それなのに、補修の途中なのだろうか、柱や欄干の意匠の重要な部分に雑に塗られた青いペンキがどうもいただけない(写真左、2013年3月現在)。
案内板には、徳川家康が江戸に入った時、丸木橋が1本かかっていて一ツ橋と呼ばれており、その後の江戸城拡張工事で外郭門が建設され、一橋御門と名付けられた旨が記されている。8代将軍吉宗・9代家重の時代、子らを独立させ、将軍の世継ぎを送り出せる家柄として、田安家、清水家、一橋家、いわゆる御三卿を興したが、家名はそれぞれ城門の名にちなんでおり、この一橋門周辺に屋敷を構えたのが一橋家であった(写真右)。
しかし、北の丸に通じる田安門、清水門が建設当時の姿をとどめているのに対し、一橋門は外濠を構成する日本橋川に面した外郭門であったためか、明治の急速な近代化の中で邪魔者扱いされ、撤去されてしまった。現在は橋のそばに城門の石垣の跡らしき遺構だけが、さびしく残っている(写真中)。さらに残念なのは、昭和39年(1964)の東京オリンピックを機に始まった高速道路網の整備により、日本橋をはじめとする幾つかの橋と同様、首都高速に頭を抑えられてしまったこと。目と鼻の先にある平川門が、濠にかかる木の橋共々、往時の優美なたたずまいを再現しているのとは対照的だ。一橋家出身の最後の将軍、徳川慶喜公も、きっと嘆いているに違いない。
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