「三丁目の夕日」の舞台
2012年1月21日公開の映画『ALWAYS 三丁目の夕日‘64』は、シリーズ第1作(1958年設定)で「鈴木オート」「茶川家」に入った「六ちゃん」「淳之介」がそれぞれの形で「出ていく」話で、過去のシリーズを見ていないと話が分かりにくいはずだ。
このシリーズの舞台について、当時の東京を知る著者による興味深い記事を2本読んだ。映画評論家・CMプランナー石上三登志氏の「ALWAYS 三丁目の夕日論」(『キネマ旬報』2007年11月下旬号)、作家の小林信彦氏の「実録・夕日の中の三丁目」(文春文庫『映画×東京とっておき雑学ノート』収録)である。石上氏は、都電が走るのは桜田通りで、「夕日町三丁目」は虎ノ門三丁目(当時は「西久保巴町」)の愛宕山側が舞台としている。1958年に西久保巴町の出版社に雑誌『ヒッチコック・マガジン』の編集長として勤務していた小林氏は実際に虎ノ門を歩いてみて、やはり舞台は桜田通りの愛宕山側と結論している。そこは現在は閑静な住宅街であり、ときどき東京タワーが見える(写真左)。もとより映画が描いたのは架空の町だが、存在するとすれば愛宕トンネル手前の天徳寺周辺あたりだろう(写真右)。
ありがちなこととして、当時通勤していた小林氏は映画にいろいろ違和感を覚えたそうだが、「鈴木オート店の存在はリアルである。昭和30年ごろ、赤坂の交差点から虎ノ門まで、さらに虎ノ門から神谷町あたりまで、おもて通りに面しているのは自動車の修理工場ばかりであった。もちろん、鈴木オートよりずっと大きい」とのこと。その理由は分からないと小林氏は書いているが、桜田通りの少し先に金刀比羅宮があることから、海上交通の守り神→交通安全の連想とする説がある。
2人が強調しているのは、ともすれば下町人情話と受け取られがちなこのシリーズは東京の真ん中を舞台としているということで、実際もし『三丁目の夕日‘68』が作られたなら、三丁目のすぐ眼の前に霞が関ビルが建っているだろう。
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